2008年01月10日

日本の食はますます悪くなる

年末は毎度のごとく、年間の10大ニュースとか、1年を振り返る番組があった。その中でも食品の偽装表示問題や安全問題は必ず取り上げられた。

そしてどの番組にも共通する変化があったことに気がつくのである。

それは食品偽装を生む原因として「消費期限表示」や「賞味期限表示」に対する制度的欠陥の指摘、その改善自体が必要ということ、さらには期限を過ぎても食品はすぐに腐るものではない、最後は消費者の五感(官能)による判断が大事で、いわば食教育の問題だという論調だ。

さて昨年、表示問題の端緒をきった不二家問題が2007年正月明け早々から、ミートホープ問題が発覚したのがその半年後の6月。その後、赤福餅、御福餅、宮崎うなぎ、名古屋コーチン、比内地鶏、さらには吉兆(船場吉兆)、マクドナルドと留まることなく偽装表示は続いたのである。

その結果、偽装表示は個人のモラル、反社会性をあげつらう報道自体の陳腐性が却って目立つようになる。さらに老舗中の老舗、吉兆までに表示偽装があったとなれば、もはや「表示偽装」という言葉自体が宙に浮いてしまう事態となっている。

つまり食品業界において「偽装表示=普通」ということになってしまったのである。

一番困ったのはマスコミ。実際名古屋コーチンあたりまでは、事件の発覚、経営者のモラル、当該企業の酷さなど、これでもかとセンセーショナルに取り上げたものだが、赤福の偽装表示発覚あたりから少しトーンが変わってきた。

つまりセンセーショナルに取り上げること自体に意味がないことを視聴者も気づき始めた。

日本の食品は「偽装表示=普通」ということに消費者も気づき始めた。では問題は何かとということをちゃんと伝えなければ納得は得られないと考え始めたということだ。

僕は、このブログでもマスコミの取り上げ方自体に問題を感じる文章を何回か書いてきた。以前には、日経BPのサイトにコラムを書いていたころ「耐震強度偽装問題」と「食の安全問題」との共通性とマスコミの取り上げ方について下記のような文章を書いていた。

耐震強度偽装問題
 現在、「耐震強度偽装問題」のニュースが連日報道されている。このような事件が起こると、マスコミやワイドショーの一斉報道が始まる。そして報道には一つのパターンがある。まずは悪者探し、個人たたきだ。それに乗じて、ゴシップ記事を含め、個人情報が徹底的に暴かれていく。個人情報保護法も何もあったものではない。この段階では個人のモラルに関する問題が強調される。不幸なことに自殺者も出る。一方で被害者救済が叫ばれ、国の責任追及が始まる。

 その次は、事件を起こした側にも同情すべき人が現れてくる。「ひょっとしたらこの人も、より大きな力による犠牲者ではないか」という展開だ。今回の耐震強度偽装問題では誰になるのだろうか。そしていよいよ、業界の実情や法律、制度問題へと話題は移る。しかし残念ながら議論は空転し、結論には至らない。

そして今度は、被害者の主張しだいでは自己責任論があらわれ、被害者への批判も出てくることになる。結局は、一体「誰が」「何が」悪いのか分からないままニュースは消え、次の視聴率を求めて新たなテーマを待つ――というふうに書くと穿(うが)ち過ぎだろうか。


食の安全問題も同じ構造にある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なぜこのような偽装問題が起こるのだろうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

言いたいことは一つ。「消費者ニーズ」という怪物についてである。テレビに置き換えれば「視聴率」といえるだろう。「消費者ニーズ」という怪物、いや、怪物に仕立てる構造が横たわっているのだ。今回の耐震強度偽装問題、つまり「住の安全問題」も「食の安全問題」も、そしてそれを取り上げるマスコミも、「消費者ニーズ」に逆らえば経済競走に勝てないという同じ構造的問題の上に立っている。

つまり、マスコミにとっては一つのテーマに対して、切り口を変えつついかに視聴率を上げていくかという方法論がいつの間にかパターン化しているということだ。

さて、僕が危惧することは、マスコミが法律問題や制度問題に触れ始めるといよいよ報道の終わりが近づいたということだ。

その結果、問題の本質、解決の道筋は相変わらず曖昧なまま、センセーショナルな印象だけが残り、食品企業はますます萎縮したまま、食本来の質の追及とは別にいかに事件・事故起こさないかという諸策を考える。

その結果、「日本の食はますます悪くなる」ということだ!

なぜか

マスコミのセンセーショナルな問題の取り上げ方は、食品業界から見れば、業界のリスクをますます高める結果を招いている。その結果は、より長持ちのする(賞味期限、消費期限の長いもの)、腐らない食品の開発につながる。

偽装表示はもともと個人のモラルということではなく、構造的問題、制度的問題、食教育の問題、食べ方の問題という認識がなければ、本当の解決には結びつかない。そこをもっともっと追求し報道し続けてほしいものだ。

そうでなければ、企業としての取り組みはいかに事件、事故に結びつかないための施策、そのためのリスクをどのように低減するかという問題に矮小化され、例えば防腐剤、保存料の必要以上の使用などにつながっていく。

その結果食が本来持つべき安全性、味、鮮度、といった本質的改善とはならず、むしろ品質という意味ではさらに劣悪になる可能性すらあるということだ。


2008年も食の安全や偽装問題は必ず起こる。より鮮烈な形で起こる可能性がある。

問題の本質に対する議論が不十分なまま、発覚直前にある問題を多々抱え、解決の道筋は何一つ見えないままというのが日本の現実なのだから。

その時私たちはまたモラルの問題から始めるのだろうか、本当に考えるべきことは、自分たちの問題として、生産者も加工業者も流通も販売者も、さらに消費者としても原因は自分の足元にあるというというところから見ることではなかろうか。

自分も食の開発や流通に携わる者として、同じ問題を起こす可能性は常にあるというのが偽らざる心境であり、食の安全はフードチェーンの連携なくしてありえないという意味で、一人で対処し得るほど単純な構造ではないということなのだ。


food_trust at 23:12 │Comments(0)TrackBack(0)clip!食の安全・安心 

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